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RYUJU'S CAFE
脚本家・龍樹のオフィシャルHP
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食の色彩

 京の料理は目にも楽しい。水際立つ色彩がある。

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・もち料理「きた村」
 京都市下京区木屋町仏光寺上ル
 http://www.kyoto-yuka.com/simokiya/kitamura.html

Hemingway | A Moveable Feast

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 もしも、幸運なことに  
 若き日を、パリで過ごすことができたなら、
 その後の人生をいかなる場所で過ごそうとも、パリはついてまわる。   
 なぜならば、パリは移動祝祭日だから、だ。

 これは、ヘミングウェイの記した「移動祝祭日」における、有名な序文だ。
「移動祝祭日」は、1921年から1926年にかけてヘミングウェイがパリで過ごした日々の思い出が綴られている書で、僕は当時、これを二十歳の時に読み、青年期にありがちな夢想を繰り広げ、しばらくすると旅の用意を調え出し、やがて、導かれるようにしてパリへ向かった。そして、その通りになった。あの序文の言葉通りに。当時大学生だった僕は、理工学部に属していたのだが、仏文科に転部して、親を悩ませることになる。この言葉を読んでいなかったら、僕は理工学部をそのまま卒業し、エンジニアになっていたかもしれない(そんな才能があればの話だけども)。そういった意味においては、僕の人生においてひとつの転機となった言葉ではある。

 タイトルの「移動祝祭日」という言葉は日本人としては馴染みにくいが、要するに年ごとに日付の変動する祝日ということである。ヨーロッパでは聖人にちなんだ祝日が多いので、わりにこういった祝日が多い。祝うべきことが先立ち、決まりごと=日付は、その後を追いかける。ともかく、ヘミングウェイはパリで過ごした日々について、人生における祝祭日のようなものと考えたわけだ。かれがパリで青春期を過ごした20年代は、パリの至るところで新しい芸術が生まれようとする息吹があり、それはもう刺激的な街だった。かれの傍にはゼルダとの関係に悩むフィッツジェラルドがあり、スタイン、パウンド、ジョイスらが居た。カフェに腰を据えるかれのそばには、つねに何杯目かのコーヒーか、或いはカラフェの安ワインがあった。寒い日にそれは、生のオー・ド・ヴィか、あるいは温かなヴァン・ショーにとって変わられる。かれはそれを飲み、思索に耽り、将来を案じ、そして、ただひたすら書いた。それが青春期のヘミングウェイだ。かれはひとりカフェに居て、ときどき美しい女に出逢う。そんなある日の記述がなかなか良いので、ここにちょっとだけ抜粋したい。

 一人の若い女性が店に入ってきて、窓際の席に腰を下ろした。とてもきれいな娘で、もし雨に洗われた、なめらかな肌の肉体からコインを鋳造できるものなら、まさしく鋳造したてのコインのような、若々しい顔立ちをしていた。髪は烏の羽のように黒く、顔にナナメにかかるようにきりっとカットされていた。 ひと目彼女を見て気持が乱れ、平静ではいられなくなった。いま書いている短編でも、どの作品でもいい、彼女を登場させたいと思った。しかし彼女は外の街路と入口双方に目を配れるようなテーブルを選んで腰を下ろした。きっとだれかを待っているのだろう。で、私は書きつづけた。 ストーリーは勝手にどんどん進展していく。それについていくのがひと苦労だった。セント・ジェームズをもう一杯注文した。顔を上げるたびに、その娘に目を注いだ。鉛筆削り器で鉛筆を削るついでに見たときは、削り屑がくるくると輪になってグラスの下の皿に落ちた。  ぼくはきみに出会ったんだ、美しい娘よ。きみがだれを待っていようと、これっきり二度と会えなかろうと、いまのきみはぼくのものだ、と私は思った。きみはぼくのものだし、パリのすべてがぼくのものだ。そしてぼくを独り占めしているのは、このノートと鉛筆だ。 それからまた私は書きはじめ、脇目もふらずストーリーに没入した。いまはストーリーが勝手に進むのではなく、私がそれを書いていた。(高見浩 訳/新潮文庫)

 たしかにこれは、一人の若い女性について書かれた記述ではあるけれど、かの女にたいする思いは、かれのパリに対する思いでもある。きみがだれを待っていようと、これっきり二度と会えなかろうと、いまのきみはぼくのものだ。そして、パリでの日々はかれの肉体の一部になった。それからかれがどこへ行こうとも、パリはかれの中に棲み続け、かれの心を捉え続けた。それはたしかに、「移動祝祭日」だった。決して長かったとは言えないかれの、人生の中の青春期を彩った、祝祭だった。

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 そして、いまのぼくも、パリのカフェに居る。サン・ミッシェル広場の近くの、こぢんまりとしたカフェだ。時刻は午後の九時を回ろうとしているが、7月のパリは、夕刻手前のように明るい。だから、まだ夜ではない。観光客があちこちへカメラを向け、老婦人が手慣れた感じでその間を縫って歩いている。かの女はバゲットと、野菜を詰め込んだ袋を抱えている。広場では、若い男がよくわからないパフォーマンスをしている。民族楽器のようにも見える変わった太鼓を持っているが、かれはそれを叩くことはない。ただ、呪詛のようにひたすら言葉を吐き続けている。即興詩人なのかもしれない。やや斜めに置かれた隣の席では、モデルのように綺麗な女性が、細いタバコを咥え、火を点けようとしている。たが、なかなかライターの火が点かない。すかさず、近くに居たウェイターが手で風よけを作ってやる。かの女は礼を言うかわりに、とっておきのスマイルをかれに差し向ける。微風のおかげで、かれは得がたいものを得る。やがて22時になる。だがまだ日は暮れない。この長い昼を味わうがために、夏のパリには訪れる価値がある。肌を灼き、さんさんと照りつけ、茹だるような暑さをもたらす夏の陽と、きんきんと冷やされたカラフェの中の白いワイン。少なくとも、ここには他のどの場所にもない時間の流れ方がある。パリにやってくるのは数年ぶりだったけど、昔を思い出して、いちいち感傷に浸ったりはしない。パリはあのときと変わらない。ブックマークを挟んでおいた小説を再びめくるように、なんの留保も澱みもなく、以前とかわりなく物語は進む。ぼくは抗うこともなく、その自然な流れの中に身を置いている。思索に耽ることもなく、以前も座ったことのあるこのカフェで。ぼくはただ、ぼぅっとしている。
 あの「移動祝祭日」は、ヘミングウェイが無名時代の日々を記したものだ。それが書かれてから、もう100年にも迫るときが流れている。しかし、その輝きはいまも失われていない。かれの文体も、パリの描写も。

 パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他のどの思い出ともちがう。私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。パリは常にそれに値する街だったし、こちらが何をそこにもたらそうとも、必ずそれを見返りに与えてくれた。が、ともかくこれが、その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだった頃のパリの物語である。(同じく、高見浩 訳/新潮文庫)


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